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  • 朝野裕一

運動感覚とヒトの心理

昨日紹介した番組、「ヘウレーカ」では、こんなこともにも言及されて

いました。

それは、

ヒトが動く時あるいは目線が変わるとき、それがヒトの心理面に与える

影響は結構大きいのではないか?という提言です。

腰に頭の動きと連動するカメラを装着して歩くと子どもあるいは車椅子

に乗っている人の目線でものを見ることになります。

すでに言われていることではありますが、目線が下がると大人や立って

いる人と話すと、常に上を見上げなければならない、上からの威圧感を

感じながら話さなければならない、という感覚が実感としてわかる

というものです。

ですから、

車椅子に乗っている人や座っている人、子どもとの対話は、目線を相手

に合わせて、こちらがしゃがむなりして同じ目線で話すほうがいい、

ということになります。

意識するしないに関わらず、本能的にヒトは身体関係などと心理が連動

しているようです。

トップアスリート感覚を追体験する試みでも、見える世界が違うだけで

なるほどこういう風に見えているんだ、と感じられ、そのことは普段の

自分の身体ー心理感覚とは異なる非日常体験で刺激的なことでしょう。

他人の動きを再現させる機械装着体験も、誰かに支配されている感覚を

持つかもしれないし、そうでなくても不思議な感覚が頭をよぎると

想像されます。

ヒトが生まれてから会得する様々な情報や知識・感覚はすべて、環境と

身体(運動)との関係から起こります。

どちらがなくても成り立たない。

そう考えると改めて身体の運動は、単に健康を維持するとか、運動能力

を高められるとか、気分的にスッキリするとかいうレベル以上のものを

ヒトに与えていると考えることができます。

何度もここで書いているように、

生きている以上カラダが動かない状態はありえません。

寝ていても寝返りを知らず知らずしていますし、たとえできない状態に

あっても、呼吸をしている以上は肋骨は常に動いています。

それは極端な例かもしれませんが、ある一定の場所にじーっとしている

ということが、ヒトにとっていかに不自然なものか?

と考えると、

生活レベルから身体運動(カラダの動き)を考える機会は必要なこと

だし、必然といってもいいと思います。

変な言い方ですが、

どうせ考える必要がある、必然だということならば、もっと積極的に

捉える方がいいでしょう。

ここで身体運動と心理との関係をもう一度考えてみても、

運動が認知症の症状進行を抑える効果があると言われるのもよくわかる

気がする、となりませんか?

本当に、生活の中でいかに運動要素を取り入れていくかを真剣に考えな

ければならないなと思っています。

つまり、

運動をしなければならない!といった強制的なアプローチではない形で

運動を促す工夫・仕掛けが必要なんだということです。

それがダンスなのかもしれないし、旅行体験のVR画像なのかもしれま

せん。

または、

その人固有の興味が及ぶ物事を見極めた上でのアプローチだったり

(いわゆる趣味ということです)、ペットの存在、ロボットとの対話?

子供との接触だったりもするでしょう。

今介護の分野でも、

そのようなアプローチの効用が報告されてきています。

ヒトが動くことと、動こうとする背景にある心理状態は密接な関係に

あるということを感じます。

何かまとまりのない話になりましたが、今日も読んでいただきありが

とうございました。また明日。

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